世の中、多くの人たちが生活のために働いていると思います。
つまり、働かなくては生活できないということで、
当然、私もそうです。
生きていると時折、仕事の中や家庭の中などで「選択」を迫られます。
そして、その結論を導き出す判断の材料の一つが「損得勘定」です。
目次
最近、「これって、なんの得があるのか?」とよく考えるようになった気がする
この場合の”これ”というのは仕事のことで、最近は「嫌気が差した」というか「疲れた」というか…
営業成績のことで上司からくどくどと説教があったり、休みがなかったりと…
これは以前からのことですが、若いときは「もっと頑張ろう!」という発想があったのですが、最近では、
「これって、なんの得があるの?」
というか、
「得がないから頑張る必要はない!」
と考えています。
もう少し掘り下げて自己分析してみると…
それでも(ある程度)がんばっています。
若い時の頑張ろうという気持ちは、
「頑張って評価を上げよう!」
「出世したい!」
「他の人達から一目置かれたい!」
もちろん、「収入を上げたい」という気持ちもありましたが、
どちらかと言えば、
「一目置かれたい」
「仕事の指示をしたい」
「大きな仕事を任せてもらいたい」
という気持ちが大きかったような気持ちだったと思います。
直接的ではありませんが、これもある意味「損得勘定」が働いています。
そして、現在に至って言えば、
「それでも頑張っている」のですが、
このときキーワードとなる言葉は
「犠牲」
という言葉です。
人は犠牲者になることが楽だということ
つまり、人の言いなりになることで、自分の責任を軽減することができ、
もしも、仕事がうまく行かなかったとき、その人達を悪人に仕立て上げられるのです。
犠牲者は同情され、助けたいという感情が人には芽生えます。
リスクを回避したいと思うこと…
同情を得たいと思うこと…
これもある意味「損得勘定」が働いています。
わかり易いか、わかり難いかはあるが、ほとんどの人は損得勘定で動いている
私としては損得勘定を顕にしている人のほうが好感が持てると感じています。
顕(あらわ)隠れていずはっきりと見えること。また、隠さずわざと見せること。むきだし。露骨。公然。
損得勘定で動く人は
- 「見返りがないと動かない」
- 「人付き合いも損得で考えている」
- 「自己中心的」
- etc…
と言われていますが、
どうでしょう?
自分でも心当たりがありませんか?
私は「大アリ」ですね。
私も気をつけてわかりやすく行動しています。
あとでガッカリさせたくありませんので…
おっと、これも損得勘定?